O!!iDO 短編映画祭とは

未来のデッサン、そして価値そのもの

目の前の小さな堀を越える事ができない者には、さらに大きな堀を越える事などできない。
困難な敵に立ち向かい、それを倒して、はじめて強者であることが証明される。

オイド短編映画祭はプロ・アマ、ジャンル、年齢、言語を問わない、短編作品に特化した独立系映画祭です。
高円寺を拠点に、年2回、渋谷で開催されます。「Oh!!, I do!」であり「おいど」でもあります。

少々長い引用になります。

死の床にある名脚本家・菊島隆三さんに、盟友・橋本忍さんが語りかける場面―― 幻となった国立映画劇場・撮影所の構想から、全く新しい映画のシステムに言及するくだり ――

「菊島さん、僕はこの撮影所にはもっと違う意味のものを賭けていたんです。狙いは映画の自由、自由化です……菊島さん、映画は本当に自由化されている商品でしょうか?僕はそうは思わない。一種の統制品です。(中略)映画の企画はいつの時代でも慢性的に飢餓状態である。なぜだろう?長さに均一性があるからだ。小説には短篇、中篇、長篇の三種類がある。だが、映画には短篇と長篇がなく、常に中篇の一種類に固定し限定化されてしまっているからだ」「短篇物で確実にいえることは(中略)序、破、急、の三楽章、ワン、ツウ、スリー!のパターンで話が作れる。
こうしたシナリオの書き方の革命的な変化で、様々な社会現象に見え隠れするドラマの摘出も容易になり、着想、即、作品化のスピードで、これまでには具体化のメドのつけにくかったドラマも次々と出てきて、映画は全く新しい活況の時代に入る」「映画の入場料が均一でなくなり、同時に時間枠が存在しなくなれば、映画は多様化し、自由化され、短篇あり、中篇あり、長篇ありで、企画不足などはあり得ず、多種多様な意欲作や野心作の出回るメドもつき……(以下略)」

(橋本忍著「複眼の映像 ―私と黒澤明」(文春文庫刊)より。「篇」の表記は原文による)

徹頭徹尾テクノロジーの産物でもあった映画が、「映像の世紀」と言われた20世紀を経て、ようやく僕らの手元にやってきました。街行く人のほとんどすべてがビデオカメラを携帯し、小型モニターを持ち歩いている時代。あらゆる人が受け手であると同時に、作り手になることもできる時代。デジタル一眼やアクションカメラといったテクノロジーの恩恵を、僕らが直接受け取ることのできる時代。

思えばすべての物語の源ともいえる口承文学や説話文学は、ひとつひとつは間違いなく短いものでした。
そして僕らは、ゴダールや小津や、黒澤に触れるはるか以前に、「ウルトラQ」や「ウルトラセブン」、数多の作り手たちが精魂を込めた、30分の短い物語たちに熱狂していませんでしたか?

僕らは、僕らを育んでくれた物語に、何か応えを提示できるときに居合わせているのです。
フィクションであろうが、ドキュメンタリーであろうが、それはキレのある、短い物語であっていいのです。

オイド短編映画祭は、まるで旅ゆく仏教徒たちが壁画に思いを託した敦煌莫高窟のように、たくさんの短編映画を、観客のみなさんに提示する場所です。
そしてまた、作り手の新しいムーヴメントを触発し、定着させ、持続させていく為に機能します。

最強のインディペンデント作家ともいえるジョージ・ルーカスも、ジョン・カーペンターも、そのデビュー作は自身の短編作品をリメイクしたものでした。(「THX-1138」(1970)、「ダーク・スター」(1974))スタンリー・キューブリックさえ、そのキャリアの出発点は16分の短編ドキュメンタリーです。(「拳闘試合の日」(1951))
そして映画王チャップリン、無数とも思える短編群あってこその「モダン・タイムス」であり「独裁者」なのです。

まずは作りましょう。創り上げましょう。話はそれからです。
たくさん創作することが、そのまま未来の骨格となります。できることを今やり遂げましょう。
そしてそれが、作り手にとっても、受け手にとっても、新しい価値そのものを創り出しているのだということを、オイド短編映画祭は宣言しておきます。

映画祭で、お会いしましょう!

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